2025年05月12日
5月とスピッツ
私は日本のロック/Jポップバンド「スピッツ」の30年来のファンでして、ファンクラブには入っていないもののアルバムはほぼ全て持っており、折に触れて聴いています。私がそのスピッツに出会ったのが5月でした。
30年前といえば1995年で、私が大学に入学した年でもあります。その年は、5月までに日本の自然・環境・社会を象徴する大きな出来事が起きていました。
まずは何と言っても阪神・淡路大震災です。HPのプロフィールにも載せていますが私は関西大学出身で、この年には他にも関西の私大をいくつか受験しています。今のように地方試験などほとんどありませんから、大学まで試験に出向くのです。そして受験は発災のほんの半月後でした。特に最大の被災地だった神戸市に近い西宮市の大学を受験した時には、最寄り駅までの鉄道路線が寸断されており、開通したのは試験の前日でした。おそらく鉄道会社がその日を意識して間に合わせてくれたのでしょう。それに安堵感を感じることにも一抹の罪悪感を抱かずにはいられませんが、それが「一抹」で許されたのも、自分に許してしまうのも、受験生だという言い訳が立つためでした。
電車が西へ、そして北へ向かうにつれ、車窓から見える家屋は倒壊してゆき、そこが紛れもない被災地であることを見せつけられた車内はわずかにざわつき始めました。乗っているのは私と同じ受験生が多かったはずです。そして列車を降りると、私たちは一面のがれきと倒壊家屋を横目に大学へと向かいました。コンビニのファサード(店舗前面)の看板が足の高さにあるのを見送って坂を登ると高級住宅地で、そこでは倒壊家屋はわずかでした。
住宅地を抜けた大学の正門前ではバイトと思しきお兄さんが予備校の名前の入ったシャーペンを配っています。何か間違ってるんじゃないかと思うものの、次の瞬間にはその問いが自分に返ってきます。
その後のことは覚えていません。昼休みに余震があったことだけは覚えています。下から突き上げるような揺れでした。
そして受験も終わり、国立大後期試験の発表がされたかどうかという3月下旬、東京では地下鉄サリン事件が起こりました。この国は、社会はどうなってしまうんだろう。大都会では、むろん大阪でも、似たようなことが起こるんじゃないか。そんな不安を抱きながらも、自分を受け入れてくれた数少ない場所から1つを選んで飛び込むことしかできないのが学生というものでした。それ自体はいつの世も同じでしょう。
そして入学して1ヶ月あまり、周りが関西出身者ばかりなのはいいとしても、付属校出身者がカースト上位を占める中で居場所が定まらない生活にそこはかとない虚しさを感じ始めた5月頃、妙に耳にするメロディーがありました。哀調を帯びたギターのアルペジオ、クリアなハイトーンボイス、それがラジオでも有線放送(Usen)でも四六時中聞こえるのです。芸能に疎い私も、その曲は今の自分に必要なものに思えました。多くの人がそうだったのでしょう――その曲「ロビンソン」で、無名だったスピッツは大ブレイクを果たしたのでした。
その曲調は、私なりに一言で言えば「現実逃避」の歌です。象徴的な大事件のその前から不景気は社会を覆い、大学生になっても就職の見通しは暗いばかり。そんな憂うつな地上から見上げた空に覗く幻想に逃げ込み、硬い殻の中の狭い世界に閉じこもっていく、そんな一時の甘い逃避が、あの頃の私たちには必要でした。私は即座にその曲を有線からラジカセに録音し、そしてそれ以前のアルバムを求めてレンタルCD店へ走ったのでした。
それから30年を経て過ごす5月は、あの頃とはずいぶん違って見えます。特にバイク乗りにとっては1年で最も快適な時季です。私自身が大きく変わり、社会も大きく変わりました。スピッツも変わり続けています。その変化が私の変化と歩調を合わせているかのように感じられるのは、ただの思いなしにすぎないでしょうけれど、それでも同じ年月を同時に過ごしてきたことでそう感じられるということが、ファン“第一世代”の特権なのかもしれません。
30年前といえば1995年で、私が大学に入学した年でもあります。その年は、5月までに日本の自然・環境・社会を象徴する大きな出来事が起きていました。
まずは何と言っても阪神・淡路大震災です。HPのプロフィールにも載せていますが私は関西大学出身で、この年には他にも関西の私大をいくつか受験しています。今のように地方試験などほとんどありませんから、大学まで試験に出向くのです。そして受験は発災のほんの半月後でした。特に最大の被災地だった神戸市に近い西宮市の大学を受験した時には、最寄り駅までの鉄道路線が寸断されており、開通したのは試験の前日でした。おそらく鉄道会社がその日を意識して間に合わせてくれたのでしょう。それに安堵感を感じることにも一抹の罪悪感を抱かずにはいられませんが、それが「一抹」で許されたのも、自分に許してしまうのも、受験生だという言い訳が立つためでした。
電車が西へ、そして北へ向かうにつれ、車窓から見える家屋は倒壊してゆき、そこが紛れもない被災地であることを見せつけられた車内はわずかにざわつき始めました。乗っているのは私と同じ受験生が多かったはずです。そして列車を降りると、私たちは一面のがれきと倒壊家屋を横目に大学へと向かいました。コンビニのファサード(店舗前面)の看板が足の高さにあるのを見送って坂を登ると高級住宅地で、そこでは倒壊家屋はわずかでした。
住宅地を抜けた大学の正門前ではバイトと思しきお兄さんが予備校の名前の入ったシャーペンを配っています。何か間違ってるんじゃないかと思うものの、次の瞬間にはその問いが自分に返ってきます。
その後のことは覚えていません。昼休みに余震があったことだけは覚えています。下から突き上げるような揺れでした。
そして受験も終わり、国立大後期試験の発表がされたかどうかという3月下旬、東京では地下鉄サリン事件が起こりました。この国は、社会はどうなってしまうんだろう。大都会では、むろん大阪でも、似たようなことが起こるんじゃないか。そんな不安を抱きながらも、自分を受け入れてくれた数少ない場所から1つを選んで飛び込むことしかできないのが学生というものでした。それ自体はいつの世も同じでしょう。
そして入学して1ヶ月あまり、周りが関西出身者ばかりなのはいいとしても、付属校出身者がカースト上位を占める中で居場所が定まらない生活にそこはかとない虚しさを感じ始めた5月頃、妙に耳にするメロディーがありました。哀調を帯びたギターのアルペジオ、クリアなハイトーンボイス、それがラジオでも有線放送(Usen)でも四六時中聞こえるのです。芸能に疎い私も、その曲は今の自分に必要なものに思えました。多くの人がそうだったのでしょう――その曲「ロビンソン」で、無名だったスピッツは大ブレイクを果たしたのでした。
その曲調は、私なりに一言で言えば「現実逃避」の歌です。象徴的な大事件のその前から不景気は社会を覆い、大学生になっても就職の見通しは暗いばかり。そんな憂うつな地上から見上げた空に覗く幻想に逃げ込み、硬い殻の中の狭い世界に閉じこもっていく、そんな一時の甘い逃避が、あの頃の私たちには必要でした。私は即座にその曲を有線からラジカセに録音し、そしてそれ以前のアルバムを求めてレンタルCD店へ走ったのでした。
それから30年を経て過ごす5月は、あの頃とはずいぶん違って見えます。特にバイク乗りにとっては1年で最も快適な時季です。私自身が大きく変わり、社会も大きく変わりました。スピッツも変わり続けています。その変化が私の変化と歩調を合わせているかのように感じられるのは、ただの思いなしにすぎないでしょうけれど、それでも同じ年月を同時に過ごしてきたことでそう感じられるということが、ファン“第一世代”の特権なのかもしれません。